昭和42年08月15日  朝の御理解



 今までの信心ではああダメだ。そういう思いを今合楽のほとんどの方が感じておられるのではなかろうかと思います。これで良いと言う様な考えておられる方は少なかろうとこう思う。これではならんこれではいけん、成るほど過去18年間にまる17年間、成る程是でおかげを受けてきた。おかげを受けてきたけれども是で良いとは思わん。むしろいや是ではいけんと、是では本当のおかげは受けられないと。
 なんとかしなければなんとかしなければで。今日に至っておるというのが、私は実情ではなかろうかとこう思うのです。ね、どうぞなら椛目に10何年間、信心のけいこに通うて見えた方たち、( ? )その事をひとつ思うてみてごらんなさいまし。はぁこれじゃいかんこげなこって良かろう筈がない。それでも何とはなしにおかげだけは頂き続けて来ておるから、まぁそれに腰掛けたような状態にある。
 愈々椛目から合楽。合楽も布教所から教会と言う様に、まぁいうならば教会の信心のけいこ場である、ここ合楽もそういう格がまぁゆうなら上っていくわけである。そんならその内容である所の信心、信奉者側の一人ひとりの信心の格も上がっていなきゃならんのは当然の事なんだけれど。そこんところをそのうやはり、まぁいうならばしだごだで17年間やって来た。それでもやはりそのうおかげを受けてきたと言う事。
 昨日熱心に信心も出来修行も出来られる方が、えらいこう意気消沈した様な格好で御結界に見え、すすんでみえるのです。「先生、実はまた失敗しました」信心の上でですね。「本当にもうあれほどに神様にもお誓い申し上げ、あれほどにここはどうでも改まなければならんと思うておった事を、またいうならば破った。いわゆる破壊したもう先生、私はもうダメです。」っちからこう言われるんですよ。
 本当にダメなダメですねあなたは本当にどうしますか。ついこの頃あんなにいわば私に約束をし、神様にもその事を誓わられたじゃないですか。それにまた失敗をするなんて。しかし本当にその事が難しいと言う事が分かります。生身を持っとりますからついついそういう風にまぁ言うなら楽な方に楽な方へと、楽な方に引きづられてこれだけの事はと、こう心に誓こうておったことをまた破ってしもうて、また信心のやり直し。
 もう先生、やり直す元気がなくなったとこう、先生もう私はダメだとこういうわけなんです。本当に私もダメだと思いましたですね。そしてまぁ私自身のことに思い、皆さんのことに思いです、ほんとにこんくらい真剣にやっぱやっておるのだ、思っておるのだいわゆるこれではいけん、これではいけんということを、ね、いうならば今こそ私は合楽全体にです、信心の若返りというものを求められておる時はないと思うです。
 十何年間お互い信心の稽古をして来た、そして覚えることは色んな事を覚えた。(?通り)もわかったいや(?通り)というよりも天地の通りも分からせてもらい、この通りに添わなければ、ほんとのおかげが受けられんことも分かってきた、天地の御恩徳も分かってきた、ほんとに日々が、神恩報謝じゃなからなければ成らない筈なのに、今日も一日不足な一日であった、今日も一日心配の一日であった。
 不安の一日であったと言う様な毎日を過ごしておるということ。これはどうかしなければ、これはどうかしなければこれではならん、これではならんこれは私だけではあるまい。昨日私がお届けさせて頂いた、その方だけのことだけではあるまいけれども、あまりにもそこんところができませんためにです、もう私はダメだと、もうダメだと匙を投げておるような人もあるのではなかろうか。
 そして本当に信心を挫折したり、おろそかにしたり、しておるような人もあるのではなかろうか。そうですね、今合楽でそうした生き生きとした信心を感じるのは学生会の一部の方達ですね。例えば祈願祭が明日ですね、いよいよ奉仕されます。それに向かっていろいろな御用に取り組むことはさることながら、御用だけじゃいかん信心からというので、今話し合って皆さん話し合って、朝参りを修行を思いたっておられる。
 例えて言うならこの頃から学生会の上野さんが、自電車で御本部参拝をさして貰ったと、例えばああゆうそのう一つの事に向かってそれをやり抜くとゆう、またやり抜かなきゃおかんという若若しさと言った様なものが、それは年代のせいもあろうけれども、これは若いとか年代の事じゃない信心ばかりは。私共が信心さらな信心と仰る、その心の中から生き生きとした喜びが。
 それこそ岩清水のように湧いてでるように、頂けておるならばです。やって抜けられんことはないことがです、ね、なら私どんに今更、御本部に自転車でお参りせろなんてったって、それは体力の上からでも出来ません。ね、けれどもですそれ以上のことが願われ、それ以上のことが、なされる、それも年をとっても、ね、できれる信心があるのです。ね、いわゆる表行よりは心行をせよと仰る、心行のことなんですから。
 心の行のことなのですから。ね、そういう意味合いで今学生会の方達は、形の上の表行の行がです、生き生きとして、まぁ一部の方達ではありますけれども、でけておるというような感じがする。あれが心行にかえられて、私共の上にもそういう一つの若々しさとか、いわゆる信心の、ここへ若返りをですね、どうでも一つ願わなければいけない。昨日の事も私お取次ぎさして頂いてから。
 本当にそうだなぁもう本当に、それはあなたばかりじゃないのですよ、私だってそうなんです。ですからもういつもお詫びのし続き「神様また失敗をしました」もう昨日も申しました、神様ぐらい気が長い方はいない。また本気で詫びてですね、またそれに取り組んでいこうという意欲さえありゃ、神様は許してくださる。しかも、もうしょうがなかたいというような許し方ではなくて。
 「さぁこれからまた、なら本気で頑張れよ」といったような、力づけて下さるような働きをいつも感ずるです。今まででは、結局今までのおかげである。ね、これではならん、合楽にご縁を頂いておる皆さんがです、ならこれでよかりゃよいけれども、これでよいということはないでしょうが、ね、何とはなしのおかげではなく、ここにハッキリ、本当のおかげが受けたいという願いを一つ立てられるならばです。
 、本気でです、信心の若返りを願わなければいけません。そのことを私神様に、あの昨日お届けさして頂きましたらね、このうこれはいつもそういう時の例に頂くんですけれどもね、今頃は、とんぼちゆうのはいないですね、あのういうなら、なんちゅうか。(?)新しい殺虫剤がありますから、ああゆうので、なくなってしまうんですね。私共が子供時分にあの~大きな目玉のグルグルした大きなとんぼがおりましたよ。
 あれがそのう硝子に止まってるんですね、これが硝子の板なら、ここにこう止まってるんです、それで向こうに行けれると思うんですね、ね、ですから、これに向かって、こう立っておるから、(さかたんぼうつ?)ようにして、そのうあんな状況を昔よく見たもんですよ。硝子が(?)に止まった、こんな向こうに行こうとしておるような姿が、行けるはずがないもん硝子だもん向こうは。見えておるけどもいけんのだから。
 もう丁度そのうその頃の状態もそうならです、私共の状態はそう言う所にあるのじゃなかろうか、これではいけんなりいけんのだから、ここを突破らなければいけんのだけど、これは突破られんのだと硝子なんだと。とても人間の事は力だけじゃ突破れんのだ。ね、思うちゃおるでも実行はでけんのだ。ならそういうふうに難しい事かと、考えてみればさほどに難しい事ではないのだけれども、結局そういう感じ。
 その証拠に15年間16年間または17年間、出来ていない。その私がいつも頂くそのトンボの硝子に止まって、こんなしておる姿をですね。いわゆるトンボがここへ止まって(1回手を叩かれる)おるから、こんな(?)止まっておるわけですね、( ? )。(1回手を叩かれる)あんまりも、(1回手を叩かれる)こウやっておしてですね、その目玉がつぶれるように、こう、おしておるところを頂くんです。
 昨日のその方の場合。それで私は思うて、私自身がそれを頂いて感激したんです。もうほんっに神様ちゃ気が長いお方だなぁ、この人はこれがあったんじゃおかげが受けられんと、はっきり神様が頂いておられる方なんだ。そこば改まらなきゃおかげは受けれん、あんたがそれこそいくら神様の前にさかたんぼうったところで、おかげは受けられんていう、はっきりと自分自身が頂いておられるとです。
 これが続いておる間、これがある間はです、あんたがいくら神様の前にさかたんぼうったっちゃあおかげは頂かれんのです。だから「今日は改まります」と言うて、もう何回「親先生また失敗しました」と言うてやって来たことか。だからもう、生きが、その意思がなくなってきた。それでもやはりお取次ぎの前に、お取次ぎを頂くためにここへ出てきてから「先生、もう私はもうダメでございます。」
 もうそのおかげは諦めなしゃないと、もしここを改まらなければですね、改まらなければおかげ下さらんというのならば、もうしようがない。私から見たらそのそう難しいことではないのですそれが実際は。けれどもその人にとってはその様に難しい。けれども私はその神様はなんと気の長いお方だろうかと思うたことはです、そういうお知らせを持ってですね、ね、もういよいよ行けんともうここがですね。
 これから向こうはもう行けないと言う事がです、痛いほどわかったね、今日こそそれが痛いほど分かった時かということを下さるです。ね、もう自分はダメだと意気消沈しておる、その氏子に対してです、ね、さぁそれではもう愈々何回となし繰り返し失敗をさして頂いてです、もう愈々自分はダメだと、もういけないんだと言う事が分かった、ね、分かったから、ここから愈々本気で回れ右のできれる。
 新しい信心の若返りというものが願われる、いわばその境にあるのだと、今度こそは出来るぞという今の御理解でした。私それを頂いてからそう思いました。いかに神様が自分の心というものがですね、引き立てなければおかげは受けられんかということが分かりますよ。意気消沈しとったああ暑か暑かと、だらぁとなっとる心じゃおかげは受けられないというのが分かります。
 例えばどういう、お粗末ご無礼があっても生き生きとして詫びる心、ね、そして今度もう一遍やってみます。というそういう心。そういう生き生きとした心にです、神様がおかげを下さることがでけれる、一つの状態というのが生まれてくるので、神様がそういう状態を、私共氏子一人ひとりの上に求めたもうのだなということをです、私は感じました。「はぁ本当に、また失敗したの」と。
 「神様にもう私がお詫びさして頂くから、まあ一遍頑張ってみらんの」ぐらいのことじゃもうダメなんです。ね、頑張る意欲がない。けれどもここにいよいよもうこれではいけない、向こうには行けないんだということが、痛いほど五体で分かった。ね、分かったからこれはこのまま回れ右をする以外にはないのだと、回れ右さえすりゃまた新しい視野というか、又は新しい天地が自由といわれる天地があるんです。
 ここに信心の若返りを願われる神様の願いというものがです、まぁ場合には怒るように、叱るように叩いてでもという時があるかと思うとです。そういう失敗とさせられる、それを失敗とはさせずにです、ね、それがいよいよ行けないということが分かるための、その失敗であったんだから、実は失敗ではないのだということです。ギリギリの人間の限界というものがです。
 ではもうダメだ、もう神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだということが分かったんだ、それで。だから、ここで回れ右をするという、このガラスを突き破るんじゃなくて、これは突き破られない。けれども回れ右をして、新しい信心が展開してくる、いわゆる信心の若返りとういうことが、ね、そしたら、本当にそれこそ目を輝かせて「先生、本当にまた元気がでました」とこう言うわけです。
 その元気がでましたという心におかげが頂かれるのだと。ね、私は椛目の方に、または合楽に続けられて信心を10何年間も続けておられる方、ね、5年の人もありゃ、10年の人もある。3年の人もありゃ、今の人もありますけども、今今の人が、ならそういう信心の若々しさを持って信心をしておるということではない。心に生き生きとしたものをですね、感じておらないならば、それは今。
 今日初めて参ったっちゃそれは理屈は同じこと。ね、だから誰にでも神様が求め給うのは、その生き生きとした心なんです。本気でその修行に取りくまして頂くぞというような心なんです。しかもそのやって抜けなければやまんという不退転の、とにかく御本部参拝を思い立つようなもの、自転車で。ね、そういう意気とそういう信心の一つの若返りをです、今こそ合楽全体に。
 神様が求めて、おられることはなかろうと。皆さんどうでしょうか、?お届けはせんばってん、また失敗した。お届けはせんけれども、また「これはもう私はこげな信心はでけん」と。思いよる人がありゃしませんか?ね、実際に私共が、元気を出さして頂いて、そこんところが突破できますとです、ね、自転車で、御本部参拝をさして頂いた、上野さんがです。ね、
 「はぁとても、こげなんきつかことはなかった、もう又から参らん。」とは思ってなかったようです。また折があったら、またもう一遍ぐらいはお参りさせて頂きたい。前の体験を生かして、今度はもっとスムーズなお参りの仕方があるというようなです、工夫がでけてきておるに違いないです。ね、どうそひとつ、お互いね、いよいよ明日は、大祭を前にしまして、ね、
 お互いが様々なことを、願を心に描いておられるでしょう。ね、ですからその願をそれこそ、もう(   ?   )なって御祈念をさしてもらって、神様にそのことを、その(熱闘?)を捧げるというか、(?)を神様に聞いて頂く、とういうことと同時にです、ね、「その代わり神様、私もこのような信心の若返りを目指させて頂きます。どうぞここんところのおかげを頂きますように」という願いをまた新たにされなければならんのじゃなかろうかと思いますですね。
   どうぞ。